リレー
2009年 05月 17日
あそこに自分のハンコを押す習慣がなくなってから随分経つ。
それは単にシャチハタだったり、ある時期には自分の名前入りの蔵書印だったりした。
本にしろ楽譜にしろ、買ったときには裏拍子に「買った年月日」と「自分の名前」を書くという習慣が子供の頃からあったのだが、最近はハンコはおろか名前も書かなくなった。
(読まなくなった本を売る時にそのほうがいいから、というご時世になったからということもある。
もちろん、大事な本はゼッタイ売らないが。)
先日、毎日新聞書評欄の小さなコラムに、森鴎外と「渋江抽斎」の話が出ていた。
鴎外は随分と古書を集めていたらしいのだが、その中に「渋江」という蔵書印を見つけ、その「元の持ち主」に関心を抱いたことから「渋江抽斎」が生まれた、という話。
ん〜、弘前藩の無名の医師だった渋江抽斎が、文豪・森鴎外作品のタイトルロールにまでなったわけですからね。
小学校から大学まで、学校の図書館からはずいぶんと沢山の本を借りたものだ。
今ではなかなかお目にかかれなくなったが、私の高校時代あたりまでは、図書館の本という本の裏表紙には小さなポケットがついていて、そこに「図書カード」というものが入っているのが当たり前だった。
自分の前に借りた人の名前が、そこにズラッと並んでいるのを眺めるのもちょっと面白かった。
(借りてみたらまっさらなカードが入っていて、自分が一番乗りだったときの気分もなかなかよかった・・・笑)
そこには仲のよい友達や、知らない先輩や、時には先生の名前もあったりする。
そして、つい最近知りあった人の名前が、何年も前、自分よりずっとずっと前に書いてあったりすると、なんだかちょっと不思議な運命を感じたり。
本を介在した糸は、たしかに存在する。
そういえば、高校のとき所属していた「グレゴリアンチャント・クラブ」(なんちゅ〜マニアックな部活動・・・笑)では、生徒個人個人が持つグレゴリオ聖歌の楽譜は、先生は一体どこから見つけて来られたのか、フランスの修道院で使われていた中古のものを購入していた(カトリックだった化学の先生が顧問だったのです)。
当時3000円くらいだった記憶があるから、高校生としては結構な額だったのだが。
その楽譜は聖書のように分厚くて、やはり聖書のような黒くて固い表紙をもった重たい本だったが、自分用の一冊が届いてワクワクして開いてみたら、ページのあちこちから黄色くなったり色鉛筆で綺麗に塗られたりした聖画の栞や、何本も付いている色とりどりの栞の糸の先に付けられた小さなマリア像などが出てきて、ひどく幸せな気分になったのだった。
鉛筆で書かれたフランス語やラテン語の書き込みもあったなあ。
「この本を使っていたのはどんな修道士さんだったのかなあ」
「手放したということはもうずっとずっと前に天国に行ってしまったのかもしれない」
・・・なんてずっと考えながら歌っていた3年間だった。
今どき古本もまっさらに綺麗でないと価値がなく、個人情報とか色々な危険に気を揉む時代になってしまったが、元の持ち主に想いを馳せるちょっとしたファンタジックな時間がなくなってしまったのも、少し寂しいような気もする。
そんな私は性懲りもなく、今日また古本を購入してしまい・・・凹。
すでにうちにある本を全部読んでから買う、と決心したばかりなのに・・・・。
ちなみに、今読んでいるのはインドの聖典がらみ等々なのだが、今日買ったのは中国の魑魅魍魎の話(笑)。
ま、東京に居ながらにして世界中飛び回れるのが、本のいいとこですけどね。
Darmstadtの音楽についてのドイツ語文献が何故か音研にあって、
卒論執筆時に借りたら私が一番乗りでした。
そして入院してからまた借りたら、案の定前回借りたのが私だったという…(笑)
Darmstadtの音楽についての本・・・・笑。
それはまさに、あなたのために「だけ」そこに舞い降りた、運命の一冊なのです・・・ふっふっふ。
きっと、次に借りるときも、あなたの名前以外は書かれていないことでしょう・・・(ひど〜い!)
職業柄、日本語の書き込みしか縁のない私…。国際的な古本、かっこいいな~。
以前テレビで見ました。
国際的・・・といっても、人の書き込みはクセがあってなかなか読めないものが多いですよね・・・特に知らない言語の場合は想像もつきません。
それがまた不可思議で面白かったりして。