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森本千絵さんの展覧会をみる

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たぶんものすごく混むであろう週末を避けて、平日の午後に見てきた。
森本千絵さんの展覧会「en°木の実展」@ワタリウム美術館・on sundays。

美術館最寄りは外苑前駅だったけど、お天気がよかったので原宿から歩くことにした。
まだ行ったことのない場所に、地図を見ながら歩いていくのが好きだ。
たぶん30年ぶりに通った竹下通りは、洋服やアクセサリーやカフェというジャンルはそのままに、当たり前だがまったく昔の面影はない。

表通りから裏へ。
神宮前の静かな住宅地を抜けてゆくと、とんがりハウスのワタリウム美術館がある。
初めて訪ねたが、高校生の頃、買えはしないけどその景色と空気と、そして天井までギッシリの外国の美術書をただ眺めたくてよく足を運んでいた、懐かしい「アートショップ」の匂いがして、なんだか一気にタイムスリップした。
ん〜、品と質の良いヴィレヴァン、と言えば良いのか(笑)。

まず入り口で、森本さんの生い立ちからの思い出の品々が、色と形にかこまれてお客さんを迎える。
1階はショップの部分が多く、そこでは絵はがきや小物、書物などを売っていて、それも魅力的だからついつい奥へ奥へと見入ってしまう。
中地階(というのか?)へ向かう階段を下りながら、コンクリートうちっぱなしのまわりじゅうの壁に貼られた、全国各地のご当地新聞に描かれ貼られた森本さんの軌跡。
狭い階段のあちこちで立ち止まり、人をやりすごす。
カフェを通り過ぎて地下まで下りると、たくさんの引き出しには過去のお仕事の記録や思い出のもの。世に出なかったスケッチや企画などのプロセス。そして映像もいくつか。
(引き出しの中からごにょごにょ音が聞こえてきて、そこを開けるとその音がもわ〜んと自分のところにやってくるのが面白かった)
大きなものから小さなものまで、とにかくあれだけの「なにか」が存在する空間は滅多にない。

展覧会の展示品なのか、お店の商品なのか、はたまたその両方なのかの境界線がまったくわからない展示方法がたしかに素敵だったのだけど、地階では私をはじめ何人ものお客さんが「お客様、それは触らないで下さい」「それは私物なのでお手を触れないでください」と係の人から注意されるシーンが・・・(苦笑)。ちょっと恥ずかしいぞ。
全然判別できなかったからねえ。
ときどき表示されている箇所ではいいのだけど、そうでない部分がとても多かったので、あれは書いてくれるとありがたいな。

数少ない私の「森本千絵さん経験」からは、やっぱり「コラージュ」とか「色」とか、しかも「ブルー」とか、そういうイメージが強い。違ったものが同居するバランスが素晴らしいから、あれだけの情報が表出していながらごちゃごちゃ感がなく、押しつけがましさもないのだろうな。
窒息感や圧迫感はないのだけど、かといってそのひとつひとつを「ぜんぶ」隅から隅まで「確かめよう」という気持ちに(しかもこの「いつもは重箱の隅まで見ないと帰らない」タイプの私が)ならなかったのが自分で不思議だった。
あの物たちの間をフワフワ歩きながら、自然と自分でいい感じでチョイスし、いい順番で渡り歩き、たとえ見なかった部分があったとしても残念感がない、というか。
創った側からすれば、もしかしたら全部隈無く見て欲しい、というものだった可能性は強いけれど。
だから、もしかしたら申し訳ないことだったのかもしれないけど。
なんだろうなあ、十分味わえたというか、十分伝わってきたというか、十分浸れたというか。
時間がなかったわけじゃないのに、短時間で浴びられた気がする。

年明けに友人の急な訃報があったあと、何事もなかったように毎日仕事をこなしながらも、どこか身体がこわばっていたような、なにかしら重たいものを持って歩いているような感じが付きまとっていたことを、このあいだの新国のお芝居を観て、そしてこの展覧会をみてから気づいたように思う。
それはその2つの時間をくぐったあとで、ちょっとだけまた未来のことを考える力を取り戻せたからかもしれない。
悲しいことはもう嫌だ・・・
ただその一言しか浮かんでこず、そこで完全に止まってしまって、珍しく戻ってこられないでいたような。

美しいもの、自然なもの、やかましくないけど一生懸命な人の仕事、何でもいいから音楽・・
そういうのってやっぱり、出かけて行って、出逢って、浴びないとダメだ。
大切なんだなあ、そういうの。

エレカシが活動停止中なことも、全然自覚していなかったけどやっぱりちょっと「きている」のかもしれないな。
停止になってから暫くはちょっと辛くて逆に聴けない時期があったけど、今は以前のように毎日何かしら彼らの曲を聴いている。
ある意味いまはちょっとだけ「遠く」に感じている気もするけど、でも音源だけのせいか、以前より「いつもそこにある」感覚が強く、その質(?)がなんだか前とは違う。もっと根付いてる気がする。
淡々と、ひっそりと、静かに、その時を待つ。
待ちながら、いろんな音楽を聴きながら、自分の仕事を散りばめながら積み上げながら、それがうつくしくなればいいなあと思いながら。
お手本はいっぱいあるから。
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by saskia1217 | 2013-01-24 02:35 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)

「音のいない世界で」を観た

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先週の土曜日、東京千秋楽前日の舞台「音のいない世界で」を観てきた。
オペラシティはお馴染みの仕事場だが、新国は滅多に行く事がない。
隣り合わせなのにそこはかとなく違うあの雰囲気。
あの不思議感あふれる池のせいか?
その池のところは美しく光が差し込んで、小劇場入り口の改修中のあれこれまでもがファンタスティックに思えたひととき。

長塚圭史さんが書いて演出し、彼と共に出演するのが首藤康之さん、近藤良平さん、松たか子さんという、どの一人をとっても「みてみたい」と思わせる演劇。
一番の興味はやっぱり、この人たちを長塚さんがどう動かすのだろう、どう配置するのだろう、ということ。
(書き下ろしだと思うので当然アテ書きなんだろうなあ)

「大人のための童話」とか「子供にも楽しんでもらえるファンタジー」とかいう触れ込みが聞こえてきたが、そのへんはなんだか信用できないいつもの天の邪鬼をぶらさげて、何の予習も情報も得ずに出かける。
だって「そういうテイスト」って多いのだもの。
小林賢太郎さんの「うるう」だって、美しかったのだけど、どこか半分へそ曲がりが拭えずに観てしまった感があったしなあ。

開演ベルや注意アナウンスはあるものの、じつにツルッと劇が始まった。小劇場特有のザワザワ感と、暗闇の中にぼおっと浮き立つ白いセットが開演前から既に一体化していて、そこに全くアウフタクト感なしに、本当に絵本でみるようなモノトーンの不思議な服を着た長塚さんと良平さんが登場。
お二人がザクザクと出て来たとき、まさか下が砂利(?)とは思わなかった。(砂利=「音」のでるもの、場所ということ?)
前から4列目でよく見えなかったので、そのバリバリした音はステージにビニールでも貼ってあったのかと、お芝居がだいぶ進むまで思っていた・・。

「なくした(なくなった)ものを探しに旅に出る」のもよく聞く、よく見る話。タイトルがベタにそのものだったから、そういうおとぎ話なのかなと想像はつく。
そうか、でもそういうシンプルさがいいのかな、なんて思いながら見続ける。
時々、特に最初のほう、セリフがあるところでも、静寂の部分でも、ちょっとこらえきれない長い間が感じられて、こちらの集中がとぎれてしまいそうになった。けど、そんな部分もぐわ〜んとほっておけばよかったのかな(苦笑)。一生懸命(ある意味)観すぎていたのか?
ポータブル蓄音機=「音」をなくして、「音符」の形をしたものや「ト音記号」がどんどん出てくるという筋。途中、「指揮棒」や「巨大な笛らしきもの」など「音」「音楽」を連想させるものがつぎつぎ出てくる。

左脳人間(だと思われる自分)は「どろぼう2人は何故あの蓄音機を盗んだのか」とか(途中母親のことを話していたのだが、それが理由?)、そもそもなぜどろぼうをやってるんだとか(笑・・でも悪魔とか言ってた気もするし)、「あの貧しい夫婦がさまよってたのは四季がめぐってくるまでだったのか、それともたったの一晩だけだったのか」とか、「というより、あのふたりはどっちが先に、そして何故家を後にしたのか」とか余計なことが気になってしまう。
前後関係とか、因果関係とか、ちょっとでももやっとしたり欠けていたりすると気になってしまって。
でもたぶんこういう作品では、そんなことどうでもいいのだと思う。

「振り付け」はダンスというよりも「身のこなし」「動き」。
流れるような動きが美しい。
開幕してすぐに、松さんの手の動きなどに目が吸い寄せられる。
首藤さんや良平さんの動きの曲線はおのずから納得だけれど、それにしてもこのメンバーはやっぱり面白い。
歌、ダンス(うごき)、演技(セリフ)。
セリフを言い、歌うダンサー良平さん。(だいぶ滑舌よかったですね!)
演技がうまい首藤さん!ほんとにここでは「俳優さん」だね。歌も上手かった。
そうやって観ると、圭史さんの演技がある意味いちばん「薄い」感じを受けた。その分、コミカルさ、軽妙さが光る。自然、ともいうべきか。もしかしたら一番「客観」でいられたのか。
松さんはもともとの声がいいから、その歌と同じで滑舌が美しくどの言葉も素敵に響く。顔の表情はどうしてもどの場面も可愛さが残る(「可愛さ」を軸にそれを失うことなくその周り、という範囲で変化)けど、声(セリフ)を聴いているともっと、視覚的な印象よりも本当の表情がよく伝わる。声色は変わらないけど、どっちかというとセリフのスピード(テンポ)、間、そしてトーン。
そしてもちろん、その身のこなしも軽い。

踊らずに演技するダンサー2人、いつもより少しだけ「動き」をクローズアップさせた歌手でもある女優、脚本・演出家のイメージが強く踊らず歌わない俳優。
その各々のなかのそれぞれの要素のパーセンテージが、作者(長塚さん)によって多少の無理感(というより我慢感)でコントロールされながらも、それぞれの中のそのパーセンテージが作品の時間経過の中でくるくる変わりながら、お芝居が進んでゆく。
そのグラデーションが味わえたのが面白かった。
刻々とその「割合」が各自のなかで、そして4人のなかでゆらゆらと変化しつつ、4人、時に3人、2人の総合、そこにプラス舞台のセット、音などのトータルでバランスが保たれていたと思う。

印象に残ったこと。

「弦の国」対「管の国」の戦争、兵隊シーン。
お互いの楽器(武器)についてのののしり合いがツボを得てて面白い。
「弦」で弓をうてるのか、とか。
(げんのくに、とかんのくに←なんか昔の中国かなんかですか?・・がウケました)
衣装がおもちゃの兵隊みたいで可愛い。

そうそう、ロビーにあった青田さん(=ヨガ師匠)の絵もファンタスティックでよかったですね。
けして大きくはないけれど、大作。
モノクロなところがいいのだと思うけど、思わず色を塗りたくなった。
この舞台作品とおなじベース(波長?)で、でもそれだけでない別の世界も含んでいるような。

それまでの可憐な「セイ」役とはガラッと変わって登場する松さんの酔っぱらい羊飼いと、「メ」と短く鳴く(笑)良平さんの羊。
小道具のくるくるした早い使い方が印象的。
良平さんは、おばあさん役もよかったなあ。

スカートめくりの良平さんのシーンは、セリフの量が多く早口。
「アジタート情熱」とか「音楽用語+単語」が連発。
「リゾルート断言」が、この日最高のツボだった!
これ、今後使っていこうと思う(笑)。
(じつはこのあたり「噛んじゃう」こともあったそうなのだが、この日はバッチリ全て聞こえてていちいち可笑しくて声だして笑ってしまった)

夜のシーンで突然膨らんできたおっきなフクロウにはビックリ。
あれは夢に出る・・・。
声も怖かったし。
フクロウと月。
このあたりはたしかに、子どもの頃絵本から受けた匂い満載。
半分怖くて半分眠くて、そして惹き込まれるトロトロ感。

しかしまさか最後が歌で終わるとは。
歌手である松さんの歌が素敵なのはもちろんだが、共に歌う首藤さんの歌もいい。いつのまにか長塚さんと良平さんも歌ってたし。
4人の斉唱によるその「うまさ」がちょうどいいシンプルさ、平凡さでもあって。
そして、歌が2コーラス終わったあとにくる静寂、そして鳥の声。
歌で終わらずに、その後の蘇った鳥の声という、人の声のない静けさで終わるのは憎いね。
その「全員の歌からフェイドアウトして4人が捌けるラスト」が、モーツァルトのアンサンブルフィナーレの幕切れ、なかでも「ドン・ジョヴァンニ」のラスト(それぞれがそれぞれの方向へ帰ってゆく)を思い出させた。実際にはアンサンブルフィナーレのような派手さはないけど。

そう、そして首藤さんと良平さんが「全く踊らない」とは。
「誰が何専門だから」ということでない3人(長塚さん以外・・・彼はやっぱりどうしても「演劇の人」そのものだ。が、この場合「作った元々の人、演出した人、そして演じた人」という要の人という不動感が伝わった)が、皆流動性のある人ばかりだったからこそ出来た作品なのだろうな。
境界線のない「なにか」がステージで出来る3人。
いいよねえ、本当にあこがれる。

「子供のためにも」という作品だったみたいだけど、子供にはまた全く別のものに映っただろうなと思う。
大人は「失われた音をさがしにゆく夫婦の物語」のなかに「本当に大切なものは何?」とか「絵本みたいに美しい」とか「ほんわりできるファンタジー」とかを見つけるけど。
いや、見つけようとする、そうであるのだろうなと推察する、そういうものに違いない、そうであるはずだ、そういうものであるべきじゃない?・・・って。
そういう、無意識のうちに発生する作為的な思考回路(それもステレオタイプな)が自分のなかに意識されるとき、あああ、大人って嫌だな、と思ってウンザリしたりするよね。

なんだかんだ書いたけれど、その「やさしいお話」は十分に楽しくて肩の力が抜けて、そして何よりも年が明けてからちょっと重かった気持ちを溶かしてくれた気がした。
それにしても、ストーリーや設定や視覚的な色などに強烈な何かやメッセージみたいなものを置くことなしに、その作品や時間を尊いものにするってとてつもなく難しいのだろうなあ、と。
それが叶ったら、それはほんとにスゴイことなんだな、と。
はたして長塚さんがそれを「置かない」ことにしていたのか、いやじつは「置いていたのか」はわからないのだけど。

でもって、そうか、やっぱり「おとぎ話」は、「おにぎりとみそ汁」じゃなくて「パンとスープ」なのかあ、って・・・なんとなく(笑)。
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by saskia1217 | 2013-01-23 03:12 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)

年末年始

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留守にしていた年末年始に録りためたテレビ番組を少しずつ見てるうちに、松の内終了。
6日に3人の博士が来たから、クリスマスのリースとオーナメントも箱に戻った。
年賀状のお返事、授業や試験の準備、コンサートのプログラミングやキャスティング。
コレルリの「ラ・フォリア」の左手の16分音符が弾けなくなってて、焦ってさらったら筋肉痛。
リハビリ、リハビリ。

大晦日、他に見るものもなかったのでやっぱり何となく「紅白」を見た。
年またぎの頃のジルヴェスターコンサートにいつものように妹が出ていたが、あんまり面白くなかったので録画しておいて「紅白」を見続ける。
リアルタイムで見なくてごめん、妹(笑)。

生演奏バンドが撤去され完全カラオケとなった紅白は、ただでさえ下手な歌手がさらに音程やリズムについて行けず、実に悲惨なことになっていた。言わんこっちゃない。
ま、もう「歌番組、音楽番組」とは思ってないからいいんだけど。
ただただ、美輪明宏さんの「ヨイトマケの歌」には涙。黒い衣装でピンスポ1本の中での6分間、人の心を捉えて離さない、本物の音と詞と歌と、そして「見せる」動きがあった。
この歌、以前米良くんが歌ってたのも素晴らしいなあと思っていたけど、ご本人のをきいたのは今回初めてだった。オリジナルを聴けて本当によかった。
紅白見てて唯一良かったと思った瞬間。
それはそうと、番組総制作費の1/6の6000万かかったというMISIAのアフリカ中継はホントに必要だったんだろうか?・・・しかも気温50度で2曲歌うって・・。
年越しライブをやってるミュージシャンが、その会場から中継して歌うみたいなのはとってもいいと思うんだけどね。

続いて毎年楽しみに、必ず正座して見る「ゆく年くる年」。
何よりも、今年いよいよ式年遷宮を迎える神宮から、普段見る事ができない内宮の内側が映されていてありがたかった。
いつもは浅草や亀戸など都内が多い中継基地が、仙台の大崎八幡宮だったのも嬉しかったな。
震災後、仙台に行った時に訪ねてとても印象深かった大好きな神社。お正月に見ると華やかな飾りや大勢の人で、見違えるようだった。
つづいてダラダラと、これまた例年のごとく「年の始めはさだまさし」を見てて2時頃にねむ〜くなって寝るという、これまたいつものパターン。

年明けてからの「GRACE OF JAPAN」特別番組も見た。
毎週欠かさず見て、大事にDVDに保管して繰り返し見ている神社の番組。
お正月特番は2時間で、建築家、生物学者、作家など文化人が「日本の自然と神々」について話すトーク部分と、いつもこの番組の音楽を担当しているHIDETAKE TAKAYAMA氏の鶴岡八幡宮のライブで構成。
(この方の音楽、この番組で初めて知ったのだが、毎回観るうちにその音楽がどんどん映像や番組の精神と重なってくるような気がしてきてとても感動している。最初はそうでもなかったんだけど。
この日放送された八幡宮の舞殿でのライブも素敵だったけど、歌パートの歌詞がすべて英語だったのがちょっと違和感があって残念だった。コンセプト的にはぜひ日本語、大和言葉などで創ってみていただきたかった。いや、英語でもいいのかもしれないけど「ハレルヤ」はちょっといかがなものか、という違和感。あの場所であのコンセプトで「ヤハヴェ」(=「ハレルヤ」の「ヤ」)に呼びかけるのは、やっぱりどうしても違和感・・・・)

司会の西尾アナの落ち着きない動きと、敬語が欠落しているのがちょっと気になったけど、出演者それぞれの立場での、日本、自然、命、神社への感性が垣間みれて、大いに共感したり感心したり。
今や自然の中、森に囲まれて静かに暮らしている細川元首相や、日本についていつも圧倒的にツボを得た捉え方をしているロバート・キャンベル氏の言葉には本当に納得させられた。
日本人が如何に自然の中で何かを感じ、自然のただ中で生きているか。明らかに日本、日本人でしかありえない、考えられないその感性。
途中、神社本廰の総長の田中恆清氏も出演されていて(神社検定でお名前はお馴染み)、人が鎮守の森に入って行くときに誰もが感じる「緊張」や「清々しさ」など何か不思議な感覚について、それを「気配(けはい)」と呼んで解説しておられたのが印象的だった。
「最近は、その気配を感じる、感じられる人が少なくなったような気がする」というお話だった。

まさにそう、神社以外でも私たちが山や川や、あるいは都会で空を見上げるときに受け取るあの、背筋がまっすぐになるような、時には息を潜めざるを得ないような、誰かに見られているような、なにか大きなもののなかに取り込まれたような、何かと通じたような、誰かの声が聴こえるような・・・あの感覚。
そして思った。
「気配(けはい)」はまた、「気配(きくばり)」なんじゃないか?
路上で1ミリも人を避けることができない若い人たちによく腹を立てるけど、鳥居をくぐってゾクッとする日本人ならきっと、みんなそういう「けはい」アンテナを身体のなかに持っているはずなんじゃないか。
山道に入ったとき無意識に目を閉じて深呼吸しちゃってる人なら、海辺の夕日におもわずグッときちゃう人なら、夜空に光る星に思わず見入って願い事しちゃう人なら誰だって、そのはずだよね?
大切なことなんだなあ、ってあらためて思う。

Eテレでやってた「亀田音楽専門学校」も見た・・・けど、あまりにもザックリしすぎてて肩すかしくったような(苦笑)。
一般の人向けに作ったのだろうけど、なんか中途半端で面白くなかったな。
せっかく亀田さんにやってもらうなら、もう一声、深く突っ込んでほしかった。視聴者だってそういうのを期待してたんじゃないのかな。
いつか同じ系統の番組作りでやってた、坂本龍一の「音楽学校」くらいの掘り下げは欲しかったな。
しか〜し。
「クリシェ」の定義がまだいまひとつわかりません(笑)。
だいたい「クリシェ」ってネガティブなイメージしかない言葉だったからなあ(ステレオタイプ、とほぼ同義っぽい感覚)。
それでもって、なんで内声が半音降下してくるとこに注目するんだよ〜、バスじゃないのかよ〜、とか(笑)。
そういえば以前、とあるバンドのベーシストに「やっぱりいつも自分が下から支えてる、って意識あるんですよね?」と、超親近感をもって質問したことがあったのだが、「え?いや、全然。けっこう自由に動き回ってるからね」ってアッサリ否定されて衝撃だったことがあったっけ。

録りためた録画を見るのは、それなりに時間もかかる。
お正月に一括再放送してた「孤独のグルメ」を全部続けて見たら、頭のなかから、エンドロールに流れる「井之頭五郎のテーマ」が離れなくなったじゃないか(笑)。
おまけに夕食がこんな感じになっちゃって困る。
夜こんなに食べちゃあ、さすがにマズイだろ・・・・。
でも、ケチャップたっぷりのナポリタンやマヨネーズいっぱいかけたサラダの誘惑にはなかなか勝てるもんじゃあない。
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by saskia1217 | 2013-01-07 02:28 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)


今日もまた日が昇る・・出かけてゆこう!


by saskia1217

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