教養
2007年 09月 30日
昔のネタとかはよく知らないけど、最近のメディアでの活動はかなり興味を持って見ていて、惹き付けられることも多い。
(ちなみに、毎週日曜日には、彼らの事務所の前をいつも通っていたりする・・・笑)
だから某国営放送の「爆笑問題のニッポンの教養」も好きで、時々見る。
昨日の放送はそのスペシャル版で「爆笑問題×慶應義塾 2030の衝撃」とかいう、ものすごいタイトルがついていた。最近テレビをあまり見ないのでチェックしていなかったが、お昼に偶然つけた「スタジオパーク」のゲストが彼らで、その番宣で知った次第。
以前おなじようなスペシャルで東大編もあったらしいが、今回は慶應大学を会場にその先生方をゲスト、学生さんたちを聴衆にという企画。
慶應大学には毎年学生さんたちのコンサートのお手伝いに伺っていたり、先生方にも何人か友人知人がいるせいか、私自身はまったく縁がないにもかかわらずちょっと興味があったんですね。
それぞれの専門分野の先生方とのバトルはとても面白く、90分という編集にはきっとおさまり切らなかったはずだと思いながら見ていた。
番組の最後のほうで、ある学生さんからこんな質問があった。
「学問には『鍛える=知識』と、『疑問やワクワクという感動』と両方があるということですが(これはその前に出された塾長のコメント)、ではそこで得た『感動』を、その『知識』をもってどのように他の人(学問を志す、志していない、双方とも)を共有していくことが、幸せだと言えるのでしょうか」
爆笑の太田さんがこれに熱く答えていた。
「学問と漫才は全く同じではないかもしれないけれど、自分はそれを同じだと思っている。『漫才の何が面白いんだろう、何が人を笑わすんだろう』から始まり、そのつながりでもってどんどん興味の対象が増え広がっていく。それは「歴史」とか「国語」とかどこかひとつのカテゴリーではおさまりきらない。歳をとってからの興味はだんだんそういうふうになってきているし、学ぶということはそういうことではないか。
たとえば、お笑いのくせに政治や教養番組の仕事してる、とよく批判されるけれど、そういうカテゴライズが窮屈で仕方がない。もっと取っ払ってやったらいいと思う。勉強もそれと同じではないか。」
(ここで、ある教授「いやいや、バラエティになんか出て〜、って批判される大学教授もいますから、大丈夫ですよ」・・・爆笑)
そうそう、これは日本の教育に欠けているとずっと言われてきたことでもあるけれど、今やっと少しずつ、特に私立大学を中心に「そうではない」総合的なアプローチからの勉強方法が増えてきたのでは?
でもこれってもっともっと、むしろ小学校にこそ、多く設けられたらいいのではないかと思う。
太田さんの熱弁は続く。
「『つまらない』と言われる人(芸人とか、先生とか・・・)は、きっとただの表現不足なんだと思う。間違った方法でするから伝わらない。共有してもらうためには、漫才であればその(面白い)状況をちゃんと再現できなければダメ。共感させるっていうのは『おんなじ状況をつくること』。『面白かった』のはウソではなく事実なのだから、それを共有してもらえるために一生かけてその作業を追求する。大学の先生たちが学問の素晴しさを伝えるのも同じこと。」
(以上、一言一句覚えていないので、表現は違っているかもしれません。話された内容は大体こんな感じでした)
そうだよね、そうだよね〜。
しかし、どの世界でも「取っ払える」人ってスゴイ。
太田さんしかり、小林賢太郎さんしかり、近藤良平さんしかり、ほかにもいっぱいいっぱい・・・そんな人がわんさか。
「すべては『疑問』からはじまる」
だからいつの世にも、叩かれる人はいるわけで、その中にはたしかにただのニセモノも一発屋もいるだろうけど、確実に「本当の天才」や「本当の開拓者」「本物の改革者」も必ずいるのだ。
(慶應の人にとっては、その最たる人が福沢諭吉先生なのでしょうね)
ふう。
前回の記事の「戯曲集」、読み続けている。
「公演のいったいどの部分がアドリブだったのか」
「『CLASSIC』の、映像化されなかった幻のコントは載っているのか」
などというマニアックなことはさておき(笑)、
コントを文字で読む面白さ、というものが、あの別役実「コント教室」を読んで以来格段に違うものになっている気がする。
そのコントがどうやって出来ているのか、確かめ考えながら読むとすごく面白い。
それから、最近やってみて面白かったのは「ラジオコントを文字に起こしてみること」。
いうまでもないことだが、ラジオであるがゆえの作法とか、効果とか、いろいろ気づく。
・・・と、机上でごちゃごちゃと楽しんだ後は、やっぱり人間が動いて演じているコントを、がはがは笑いながら楽しむ。
それが、本来の姿!
あ〜、秋の夜長は、することいっぱい。