2つの知らせ

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もう何週間か、前のことになってしまったけれど。
書いておこう。
2つの訃報を受け取った日のこと。

学生だった頃から働いている今現在まで、途中日本を留守にした8年間を挟んで30年余り、生活の場となった時間の多くを過ごした芸大。
その音楽学部の食堂で、私が入学するもっとずっとずっと前から働いていらした名物おじさんがいた。
芸大キャッスルの豊おじさん。
そのおじさんが急逝されたとのニュース。
知らせをきいた日のつい数日前、古楽科試験審査で教員7人で食べにいきいつも通りに談笑したばかりだったから、最初は何かの間違いかと思って信じていなかった。
でも本当だった。

学生時代から30年近い親しいお顔。
だから「センセ、コーヒー飲んでって!」って、その呼ばれ方が未だに慣れないままだった。
学生時代なにも特別な印象のなかった私みたいなのの顔もちゃあんと覚えて下さってて、大学を離れて8年後にまた現れるようになった私を、突然「センセ、いらっしゃい!」と呼んだ豊おじさん。
勤め始めて19年、大体いつも大浦に食べに行ってしまう私が、その数週間、何故か久しぶりにキャッスルで3回ほどお昼を食べた。
おじさんが勧めてくれた盛り合わせを食べ終わって午後の審査に向かう時「ごちそうさまー!」と手を振った私を「はいセンセ、ありがと!」と笑って送り出して下さったのが最後だった。

その日のうちにTwitterやFacebookが、思いもしなかった訃報に悲しむ多くの卒業生、外部の方からのメッセージで溢れた。
おじさんは大学の外でも、上野界隈では知らない人のいない地元の名士で、いろんな役を引き受けて上野のために走り回ってらした。
いつもトトロのエプロンの上にジャンバー姿で、上野公園を自転車で颯爽と風を切っていた。
その上野公園で、そして根津駅の近くで、落ち込んだ様子の芸大生に会うと、喫茶店に誘って元気づけてくださった話。
いつも、どんな人にも笑顔で、特徴のあるダミ声で一人一人に声をかけてたおじさん。
学生時代、今は教職員専用スペースとなってしまった談話室が、当時は主に声楽科のたまり場で、そこにはいつも日々の悩みや、将来の不安を抱えた若者たちがおじさん相手に一日中話し込んでいたっけ。

同じキャッスル食堂の大おじちゃんが亡くなったときも、今はもう無くなってしまった大関売店のおばちゃんが亡くなったときも悲しかったけど、豊おじさんは一番長い時間会っていた方だから本当に悲しい。

先輩たちにはきっと、私よりもっともっと大量の思い出が重なっていることだろう。
いまこの瞬間、全国、いや世界に散らばった、いったい何人の音楽家たちがおじさんに思いを馳せていることだろう。

よく「苦しむことなく、意識もハッキリしたうちに、ぽっくり死にたい」という人がいる。
たしかにそうかもしれない。
でも、本当にそんなお別れの仕方をすると、なんだか狐につままれたみたいな、今でもあのカウンターに座ってみんなに食券10円引きにしてくれてるんじゃないかと普通に思ってしまう。
ほんとうにおじさんほどどんな人にも愛され、どの人の記憶のなかにも生き続けている方を知らない。
最後の記憶はやっぱり笑顔だったから、笑顔のおじさんしか覚えていない。たぶん私だけでなく、みんながそうだろうと思う。
本当にその笑顔のままで、おじさんは居なくなってしまった。
豊おじさんに、ありがとうを送ります。

同じ日、やはり学生時代(最初の大学のピアノ科時代)の恩師で、ワルシャワ音楽院のコズベック先生の訃報を、ご家族からのお手紙で受け取った。
リディア・コズベック先生。
ポーランドから2年の予定で客員教授として赴任されていた先生と一緒に、私は大学2年から2年間ずっとピアノに没頭した。
ちょっとふくよかで、当時おいくつだったのだろうか、50代くらいでいらしただろうか、いつもカラフルな素敵な色の装いで、パワフルで、とてもチャーミングな先生だった。
先生とはいろんなレパートリーを勉強したけれど、やっぱり自ずからショパンが中心になる。
もちろん、ピアニストとして、けしてショパンが嫌いだったわけじゃないけれど、2年間ほぼいつもショパンは弾いてるという状況はどうなの?と当時は生意気なこともちょっぴり思ったりもしていた。
けれど、どう考えたって、日本に居ながらにしてワルシャワ音楽院の先生にショパンが習えるというのはもちろん恵まれた話、とてもありがたく楽しく過ごしていた。
日本で弾かれるショパンといえばソナタ、バラード、スケルツォ・・・けれど、先生からはたくさんのマズルカを与えられて弾いたのが、本当に素晴らしい時間だった。
日本での宿舎に門下生をよくよんでくださり、ポーランドのお料理をふるまってくださったり、音楽を聴いたり弾いたり話したり・・・陽気で、音楽への愛がいつも溢れていた先生。

2年の赴任期間が終わって帰国されるとき、私が4年生になる前、先生は私にワルシャワ音楽院留学と、その年に行われるショパンコンクールへの参加を強く勧めてくださった。
ちょうどあのブーニンがセンセーショナルな優勝を果たした回だ。
折しもポーランドは、ワレサ議長の「連帯」で極めて不穏だった時期。食べるものの調達さえ危うい頃。行ってみたい気持ちはもちろんあったけれど、周りの反対もあったり、学部がまだあと1年残っていたりで、結局渡欧は果たせなかった。
とても残念そうだった先生と、その時はそれでお別れとなった。

それから10年ほど後になって、チェンバロ専攻生としてドイツ留学していた私は、「第1回ワルシャワ国際チェンバロコンクール」を受けに、初めてポーランドに旅をした。
もちろんコズベック先生に事前に連絡をしていた。
先生はコンクールに駆けつけてくださり、嬉しい再会。ご自宅に招待してくださって、またたくさんの手料理でもてなしてくださった。
ピアノを弾かなくなってしまっていた私のことを、先生はちょっと悲しそうに見ていらしたけれど、音楽家としての私の学びや活動を、それからというもの、年に1回のクリスマスカードのやり取りだけになってしまったけれど、変わらずにずっと応援してくださっていた。
「いつまたポーランドに来るの?」といつも書いて下さっていたけれど、残念ながらそれ以降ポーランドにいく機会は持てなかった。
「いつかまた会いましょう」と、毎年同じ言葉を二人で送り合っていた。
「今年はこんなコンサートをしました。来年はこんな計画があって。今こんなことに夢中になっていて・・」と近況を書いたクリスマスカードに、いつもお返事を下さっていたのだけれど・・・
今年は先生からのカードはずっと来なかったかわりに、1月の終わりにご家族からカードが届いた。
「残念ながら、彼女はもうここには居ません」と。
ああ、もう一度お会いしたかったなと思った。
先生、ありがとう。
またいつか。

たくさんのお別れが襲ってくる。
年齢のせいだけではない、ただそういうことが心に深くひっかかることが多くなった。
いま目の前で笑顔で話しているこのだいすきな人に、いつ会えなくなるかもしれない、もうこれで会えなくなるかもしれない、という不安が日々大きくなる。
会うたびに大きくなる。
会いたい人には会っておこう。言いたいことは言っておこう・・・
とはいっても、そんなちっぽけな抵抗なんてどんな運命にも逆らえない。
それは仕方ないことなんだ。

せめて、せめて丁寧に。
その人との最後が、できれば楽しく美しいものでありますように。
素敵な一瞬にしておかなくては。
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by saskia1217 | 2016-02-27 00:53 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)