今日もまた日が昇る・・出かけてゆこう!

by saskia1217

沈黙

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オペラを観に行ったのは本当に久しぶりだった。
新国立劇場オペラパレスの、松村禎三「沈黙」。
学生時代からの友人である小森輝彦さんがキャスティングされているというのでお誘いを受け、以前から気になっていた作品でもあるし、ドイツで長く活躍されて帰国し、国内でもたくさんの作品に出演している小森くんの舞台を久しぶりに観たいということもあった。

遠藤周作の「沈黙」。
高校時代、西洋音楽を勉強していると避けて通れない聖書やキリスト教についてもっと知らなくちゃなあと、学校のクラブ活動の(公立高校には珍しい)聖書研究会に参加したり、その頃クラスで流行った三浦綾子の小説を一気に読んだりと、いろんなものに深く感銘、ショック、影響を受けていた頃に出会った作品のひとつ。
同じ作家のものを一通り読んだなかで、じつは一番好きなのは、ものすごくシリアスな部分を露にしないままザックリ斬られるという、(個人的イメージでは)ちょっとシニカルで天の邪鬼な遠藤周作らしい作品「おバカさん」なのだけど、そこからいくとこの「沈黙」は実話に取材しているだけあって、もっとずっと生々しいから、いつも読みたい、という具合にはなかなかいかない。

でも、生涯で忘れられない小説の一二を争う。
もう何年も読んでいなかったけれど、ストーリーをはじめ、読んだときの気持ちや状況すべてがすぐに蘇ってくる。
このオペラは作曲者が13年かけて書き上げたもので、初演が1993年。日本のオペラには珍しく、その後何度か再演されている。

観に行くこと自体はとても楽しみだったのに、出かけるまで、とにかく気が重くて仕方がなかった。
あのストーリーを、文字だけでなく、音楽と舞台で目の前で見せられたら、どんな気分になるんだろう?
どんな音楽なのか、どんな演出なのか?
大丈夫なのか?
大げさだけど、本当に、普通に鑑賞できる自信がなかった。

でも。
観て本当によかった。
それも、今、このタイミングで。
気持ちは・・・重くなったというより、痛かったというより、今だからこのくらいで済んだよ・・・みたいな感じかな。
そのどっしり、ずっしりが何だったのかは、うまく言葉では表せないけど。

松村禎三の音楽が、いかに緻密で、登場人物の心の細部の色々を、どれだけ表現しているか。
どんな使われ方をするのだろうととても興味のあったチェンバロは、そんな心象表現の多くを担っていたのが印象的。
よく言われるような、墨の世界、枯山水の庭、能の間・・・そんなものに代表される、「日本的」な「静けさを埋める、同時に静けさを音を出すことで表現する」そんな役割に相応しい楽器なのかもしれない。
緊迫感、緊張感、空虚感、静寂、厳しさ、冷酷さ、シニカル・・・そんなものをチェンバロは担うことができる。
もうひとつ、ちょっと意外だったのは(指揮の下野さんもインタビューで仰ってたけど)、さぞや無調かと思いきや、分かり易い調性部分が結講あったこと。
そのふたつの対比としての落差や、ある部分象徴的に使われている共存が、とても効果的な作品だと思った。

キャストもオケも本当に素晴らしかった。
ロドリゴの小原さんは、こんな役を演じて日常の精神状態ははたして大丈夫だったのだろうかと思えるくらい、共感できるものだった。
オハルの石橋さんも本当に印象的で、狂気と清純さの両方を同時に含む、澄んで美しく、凶器のように痛く鋭い声の表現が素晴らしかった。
いつものように優しく一途な声の鈴木さんと共に、原作に無いキャストであるオハルとモキチのエピソードは、けして(小説の映画化によくあるような)「ヒーローヒロインの恋愛エピソードが無いと、見せ場がね〜」みたいなものじゃなく、あの二人が、観ている我々の日常を代表しているような・・・
幸せ、別離、悲しみ、苦しみが、誰にでも「自分のこととして」実感できるための、とても重要な役なんだなと思った。
あの二人の場面はもう・・・ダメでした。
オペラ観ていて、あんなにボロボロ泣けちゃったのは初めて・・・だと恥ずかしながら告白。
おまつの増田さんも見事だったなあ。歌う部分はそれほど多くはないのだけれど、説得力のある声と、意味が本当に伝わって来る言葉の美しさ。
キーパーソンのキチジローの枡さんは、歌もよかったけど、転び者としての難しい演技が冴え渡っていて、後半ずっと、「だれか」からの「許し」を求め続けて彷徨う姿は、誰しも思い当たるようで、他人事とは思えなかった。
ヴァリニャーノの大沼さんは、ステージ奥にいても、まっすぐに通る声と言葉が見事。

そして、小森くんのフェレイラ。
クリストファン・フェレイラは遠藤周作がこの作品を書くキッカケとなった、実在したポルトガルの宣教師。
イエズス会から日本に派遣され、重要なポジションで任務にあたっていたけれど、拷問の末に棄教し、日本名を名乗り日本人の妻を得て、著書「顕疑録」に代表されるようにキリスト教弾圧に尽力、一方で医学や天文学の訳書などで西洋科学を日本に伝えるという面もあったという人物。
このオペラではフェレイラは、捕まったロドリゴに棄教を迫る役として、作品の後半のみ出て来る、出番は長くはないけれどとても重要な役。
学生時代から切磋琢磨して、いつもいつも「声」の形成、完成を追求し、オペラであってもリートであっても常にその具体的な根源をさぐりながら、細部まで筋の通った「動き」を求めていた小森くんの舞台は、その方法は同じだけど、以前のような、プロセスまでも見せてしまうような力や硬さはもう微塵もなくて、すべてがバランスのとれた落ち着きと、美しい制御と、そのなかで失わない熱もちゃんとある。
あのまま真っ直ぐに求め続けてきたんだなあ、という、年月の素晴らしさを感じた次第。
演じていて「かつての自分を見ているわけだから、(稽古で)ロドリゴを見ていて非常に辛い」と彼も言っていたけど、そんなフェレイラを見ているこっちもかなり辛い。
西洋人が日本人になっている姿を、日本人が演じる、というパラドックスみたいな難しさはあったのだろうなあ、なんて思いながら。
あまり大きな動きをせず、和服を着て静かに立つフェレイラ。かつての自分と同じ苦しみに悶えている目の前のロドリゴを見下ろしながら、その「動じない」姿は、彼の「全てを手放した末の確信」ゆえなのか、それともそれは見せかけだけの不動なのか・・・

遠藤周作は子供の頃にカトリックの受洗をしたけれど、その後大人になってからのキリスト教のなかでの苦悩が多くの作品としてあらわれてきた。
「なぜ、神は、すべての前で沈黙したままなのか」という疑問は、キリスト教徒でなくとも人間が抱く1つの大きな不安だと思う。
小説「沈黙」では、究極の瞬間にイエスの声が決定的にあらわれるのだけれど、オペラではその直接的表現はない。
この物語では「愛する者を救う愛」と「神への愛・忠誠」とを天秤にかける。
自分が棄教さえすれば、多くの人の命が助かる。
セリフにも出て来るが「いまここにキリストがいたら、果たしてどうされるだろう」という究極の質問。
キリストは「自分が死ぬことで多くの人の命を救った」のだけど、「キリストだったらきっと、転んで多くの人の命を救ったはず」というフェレイラのセリフをきいていると、本当にそうなんじゃないかと思えてくる。
そっちが「正しい」ように思えてくる。
人間て、そうなんだと思う。
日々、瞬間瞬間、「正しい」と思うほうを選んで、人間は生きている、生きなきゃいけないから。

自分の信じたもの、ことに、常に持ち続ける疑問と不安。
「キリスト教の神は答えない神」とよく言われるけど、それは世界中どんな宗教でも、宗教に関わらなくても、だれにでもつきまとう。
小説もオペラも、この作品の普遍性は、そこなのかなと思う。
そう、この作品はすでに映画化もされてるし、マーティン・スコセッシ監督によるハリウッド作品は来年公開されるそうだし(予算的な理由なのか、日本じゃなく台湾ロケだったのがちょっと残念だな)。

舞台美術、演出の宮田さんが望んだという「斜めに刺さった十字架」と「難破船のような出っぱり」は、何も知らなくてもよく伝わって来た。
ただインタビューで語ってらした「重くて暗いテーマだけれど、登場人物すべての心がきれいなゆえに裏切りをしてしまう、物語として優しい作品」というのには、私はちょっと共感できにくいかもしれない。
やっぱり「優しい」という表現を感じることは、私には無理かな。

ラストのクライマックス、ロドリゴがとうとう踏み絵を踏むシーン。
宮田さんは「この音楽のどの部分で踏むことにするか、とても迷った」と仰っていた。そのインタビューを読んだのは終演後だったけれど、このシーンを見ていて私は「踏む」という行為、動作、そしてタイミングそのものがとても弱いように感じられて、少し期待はずれというか、肩すかしというか、残念に思ったのだった。
演者のものなのか、演出のものなのか?
この長くて大きな作品の、そこまでの流れを受けてのポイントとして、とても軽いように思えた。
もしかしたらわざと「踏む」方を軽く、その直後に踏み絵を胸に抱くほうに「重さ」を置いている、そういう意図なのかな、とも思ってみたりしたけど、それは穿った見方なのかな?

その部分の照明が素晴らしかった。
(二階席でよかった!)
ロドリゴが踏み絵を踏んだ瞬間、ステージ床に大きく映っていた白い大きな十字架が解体して見えなくなり、分散した白い光は刻々と、倒れたロドリゴの周りを包む円になっていく。
これが、このオペラの作者と作り手、全員の答えなのかなと思った。

本当に遠藤周作はスゴイ。
一番痛いところ、一番言ってほしいことを言ってくれてる。
生前、初来日だったホロヴィッツ公演のたまたま同じ回を聴いていたことがあった。
会場のNHKホールのロビーでお見かけしたその姿は、暗い色のスーツに身を包んだ、控えめで、でも研ぎすまされたような早足で、厳しさを見に纏っているような印象だった。
数ヶ月後の「音楽の友」に、当時大学生だった私の絶賛感動満載の投稿文の数ページ離れたところに、氏の「なんだったのだ、あの酷い演奏は」という怒りに満ちた酷評が載っていたのが忘れられない。
嘘のまったく無い、きっぱりとした言い様は、ロビーでの毅然としたお姿を思い起こさせた。

日本には日本人がいる。
日本には、日本のキリスト教がある。
良くも悪くも。
そして、日本人は死ぬまでずっと日本人だ。
それでいいのだと思った。

ただのオペラ、とはどうしても思えなかった。

(終演後、小森くんと。本当にありがとう!)
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by saskia1217 | 2015-06-29 23:00 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)