さようなら、最上の歌係〜フィッシャー=ディースカウ追悼〜



フィッシャー=ディースカウが亡くなった。

いつものようにネットでARDのニュースを見ていたら、彼の名とtotの文字が目にはいって身体が凍り付いた。
とうとう、この人もか・・・。
だが、この人は私のなかで、あまりにも大きな部分を占めていた。

思い出がありすぎて。
その全てが、彼の死を知った今この瞬間に一気に押し寄せてくる。
「私の青春そのものだった人」が逝ってしまったという虚脱感について、年上の人たちがよく話してくれるその感覚を、初めて知った気がしている。
ある人にとってはビートルズだったり、清志郎さんだったり、ホロヴィッツだったり。
カラヤンが亡くなったときもかなりの打撃感があったけれど、私自身、私の本質の部分でとても近しい感覚という意味では、段違いの「ごっそり抜け落ちた」感を受けている。
音楽家としての自分で言えば、その「身内」が亡くなったのと変わらない。ちょうど「父親」か「恩師」という感じだろうか。

思い出話なんて何にもならないし、ここに書いたところで何の意味もなさないけれど。
そして彼との「思い出」のある人が世界中でいったいどれだけいるのだろう、と思うと。
何もかも空虚だけれど。
思えば私はいつも、鍵盤楽器でも弦楽器でも管楽器でもなく、いつも、いつでも「歌」に捉えられてきたのだと、今日またあらためて気づかされた。
いつでもいちばん好きなのは「歌」だった。

高校に入った15歳、ドイツリートを弾き始めて彼のシューマンを聴いたその時から、その音楽は私の進路をも少しずつ少しずつ変えていくのに十分だった。
同じ頃にドイツ語を始めたのも、そして高校卒業の頃にはリートのピアニストを目指すことを決めたのも、その後チェンバロ科の学生でありながらずっとリートを弾き続けていたのも、彼の存在と音楽が原動力だった。

黄色いロゴも懐かしいグラモフォンのLP、エッシェンバッハとのシューマン「リーダークライス」「詩人の恋」「ミルテの花」から始まったディースカウ体験。
バレンボイムとのヴォルフは一番好きで、特に「メーリケ」は何ヶ月間も毎日聴き続けたっけ。
そして何より尊敬していたジェラルド・ムーアとのシューベルト・・・三大チクルスと数えきれない小品たち。
いくつもの「愛の夢」を歌ったリストの歌曲集。
ブラームスの「マゲローネ」「永遠の愛」「五月の夜」・・・。
輝かしく、そして官能的なR.シュトラウス、大好きだった「あした」「セレナード」。
マルクスも、マーラーも、プフィッツナーも。
そして、ポネル演出が懐かしい「フィガロの結婚」の伯爵。この人ほど、あの憎ったらしくて可愛い伯爵がハマる人はいないだろう。
グルックのオルフェウスも、ヴァーグナーのベックメッサーも。

演奏ばかりではない。
彼が記したリートの本、なかでもシューベルトの三大歌曲集や、シューマンの生涯を辿った分厚い本なども、演奏する人ならではの視点もあってずいぶん愛読した。

そしてちょうど一昨日も、授業で彼の話をしたばかりだった。
「ドイツ人の歌手でも、もちろんドイツ語をどう発音するか、どう音にするかを、彼は非常に厳しく研究、そして鍛錬した人だった」という話を。彼自身よくインタビューでもそのことについて語っていた。
もちろん他にもドイツ語を母国語とする素晴らしい歌手はたくさんいるけれど、言葉の響き、発音を本当にこれほど細部にいたるまで、ニュアンスのニュアンスのその筆先の先の先まで、追求しつくし実践したのは、彼しかいないと思う。

音楽、それも殆どリートに埋没していた私の10〜20代、毎日朝から晩まで、これらの曲を弾き、時には歌い、そして聴くなかで、ディースカウは完璧な理想だった。あまりにも好きだったから、コピーにならないよう、敢えて他の歌手の演奏を聴くようにしたことも少なくなかったけど、結局はやっぱりこの人にかえってきてしまう。
長年一緒にそういう作業をともにやってきた友人たちと、四六時中ディースカウの演奏を聴いてはあーだこーだ言い合い、一日が過ぎてゆく・・・そんな学生時代。
来日するたびに全てのプログラムに通い詰めた。お小遣いもバイト代も、すべてど〜んとディースカウの歌に消えた。
彼の歌に胸をふくらませ、涙し、それを友と語り合い・・・それが幸せで仕方がなかったな。

そう、結局は・・・。
音楽は、演奏は、その人のその時代と共にいつまでも生きて、生き続けるのだ。

数えきれない名演の中でいま、フィッシャー=ディースカウという名前を呟いて真っ先に脳裏に鳴るのは、この小さな小さな1曲。
彼の歌うこの短い曲をいったい何度弾き、何度歌い、何度語り合い、何度頭を悩ませ、何度うっとりしたことだろう。
高校生のとき、この明るい他愛のない曲になぜあんなに涙がこぼれていたのか、わからない。
今でもやっぱり、目の前が滲むのだけれど。

"Seligkeit"は「幸福」というよりも「天上での幸福」に近い。
彼がどうかそこで、ミューズの冠をいだいて永遠の楽の音に包まれますように!
たとえ「ラウラ」がそこにいなくても・・・。

「至福」(Seligkeit)
詞/L.H.C.ヘルティ
曲/F.シューベルト

限りない喜びは
天国の広間で花開く、
天使たちや変容した人々も
昔の人々が教えたように集まる。
ああ、そこに僕もいて
永遠に楽しみたい!

誰にでも打ちとけて
天国の花嫁は微笑んでくれる。
竪琴が響いては、
皆踊ったり歌ったり。
ああ、そこに僕もいて
永遠に楽しみたい!

だけどそれより僕はここにいたいんだ、
ラウラが僕に微笑んで
視線で、僕に教えてくれる、
僕の嘆きもお終いだと。
だから僕は彼女と一緒に幸福に、
永遠にここに留まるんだ!


[PR]
by saskia1217 | 2012-05-18 23:10 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)