習合



私にとってはどうしても、そこは神社でありお寺ではなく、そしてお寺であってけして神社ではなかった。
「神仏習合」を知ってはいても、それを視覚的にさんざん目の当たりにしていても、あまり実感として受け取っていなかった。
もしかしたら、無理な「神仏判然令」を出した明治政府さながらに、自分の中のどこかで全く別のものとして認識しようとする力が働いてたのかなあ・・・。
隣り通しに建つ神社とお寺を訪ねながら、そこでしっかり意識の壁を作っていた気はする。

色々と調べているうちに「日吉神社の山王祭で延暦寺の僧が神前で読経する」という場面をどうしても見たくなった。
映像ではあってもそれを目の当たりにすると、よく訪ねる白山神社でも根津神社でもぼや〜んとしていた「権現」という意識が、目が覚めるように鮮やかに立ち上がってくる。

無条件に襲ってくるその感覚がじつに気持ちいいのは、私がまぎれもない日本人だという証拠なんだろうか?
インドでも同じような受容の仕方があるからけして日本だけの現象ではないだろうけれど、このおだやかで大きな「習合」という感覚は、ただの「なれあい」でも「まやかし」でも「ごまかし」でもなく、生きるためにも幸せになるためにも真の平和を目指すためにもごくごく自然な、無理のない、それでいて非常に知的で賢い方法なのだなあ、と思えてくる。
日本人はそれを、なんの嫌味も打算もなくやってのける。

いつかこのシーンを生で見てから、死にたいと思う。
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by saskia1217 | 2012-05-04 00:30 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)

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