潔いこと

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震災が起きて、その後ずっと皆が「自分にできること」「自分のしなければならないこと」を考え続けている。
テレビで流れるCMに言われても、そんなこと誰にも言われなくても、口に出しても出さなくても。
どんな職業の人でも、どんな立場の人でも、たぶん皆。

世の中に何か深刻な問題が生じたとき、大抵は一番最初に「待った」がかかるのがエンターテインメントだ。
命にかかわらないことだからだ。お腹がいっぱいにならないからだ。怪我が治ったり、壊れた建物が元通りになるのには関係ないからだ。
音楽も、絵も、演劇も、落語も。

急に大量に失った仕事のうち、そのまま消えてしまうものもある。
そのうちに段々「今こそそれが必要なのだ」とかなんとか言われて、そろそろと周りを見ながら動き出す音楽家たち、パフォーマーたち。
何度も書いたけど、表現者にもいろんなタイプの人がいて、言葉や音ですぐに行動に出る人もいれば、ようやく動き出した世の中のなかで出来るだけいつも通りの活動を続ける人、ちょっとの間活動を休んで考える時間を必要としている人・・・本当にいろいろだね。
でも、ステージ上の人間もこちら側の人間も、考えてみれば同じことを経験したのだという事実。
いろんなアーティストに接して、ちょっと見には気づかないけど、でもやっぱり何かが以前とは違っているのかなあと感じることもあるが、それはきっとこっちも変わったからだろう。

行動する人は素晴らしいと思う。
先頭を切って何かを声に出して表現することには、自分の立場や表現者生命、存在そのものまでを犠牲にしてしまうような危険性さえあるのに。
ステージ、ネット・・あちこちでそんな勇気ある行動をしている人は凄いと、心底思う。

でも。
そこで表現されていること、あるいはその方法に、私はどうしても違和感を感じてしまうアーティストもいた。
何をどう発信するかなんて自由で、そこから誰が何を感じようといいのだけど、あくまでも個人的に。
圧倒的多数の人がそれに賛同、共感、感動しているのに、私には不快感といっていいものすら感じる事もあった。

政府について、原発について。
多くの人同様、私もおもうことは多い。
原発に対しては、正直なところ、私は残念ながら100%反対とも100%賛成とも言えない。
責任が誰にあるかを決めるのは難しいが、やはり何らかの責任は誰かがとらねばならないというのも理解できる。
自分自身は直接被災も避難もしていないから、こんなことが言えるのかもしれない。
でも今の自分の状況からは、どうしてもそう熱い意見を発信するより、少し冷めた見方をしてしまう。
政府でも企業でも、それぞれの場所で、それぞれの部署で、人の命をおろそかにしていいと思って働いている人はいないと私は思っている。
何十年も、あるいは百年単位で、皆それぞれが自分の仕事を信じて命がけで働いてきたはずだ。
原子力発電の力が必要不可欠になってしまった私たちの生活、誰もがその中で平然と暮らしてきた事実、問題は感じながらも当然のように。
それが急に「誰かのせい」にしなくては気が済まなくなる。もちろん死活問題である人たちにとっては、その怒りの矛先をどこかに向けなくてはやっていられないだろう、とは思う。
でも、会社の寮、自分の住まいに掲げられている会社名を塗りつぶしたり目隠ししたりしなくてはならなくなった企業の社員やその家族が、日々命の危険まで感じながら暮らさねばならない状況になったのは、やはりどこかヘンな気がする。
そんなことあっちゃおかしい。何かが違ってる。
「震災で命を失った人のことを思えば当然」と反論する人が必ずいそうだが、それは筋の通らないすり替えでしかない。
原子力に変わる発電方法があればいいのに、なんて私のような素人、一般人だってずっと思ってきたこと。
長年、生涯をかけてその研究をしてきた多くの専門家こそ、今のこの状況にきっと一番悲しくてはがゆくて悔しい思いをしているに違いない。

小学生の頃、夏になると毎日発令される光化学スモッグ注意報のおかげで、外で遊ぶこともプールで泳ぐことも出来ないのが、東京では日常茶飯事だった。
自然を汚染する「公害」に私は人一倍憎しみを持ち、そんな詩や絵ばかりかいていた。
その頃の自分が、原発反対と政府批判をただ企業名の羅列で訴える表現者を見ていて、何故かふと重ね合わさった。
もしそういう方法をとるなら、それが短絡的に響かないような説得力が絶対不可欠で、それが可能なのはほんの一握りの人なんだろう。

人は歳をとったり、月日が経つことで、信念や拠り所も変わってくる。
今この時の正直な気持ちとして、私は、ただひたすらにその瞬間瞬間の自分の仕事に渾身の力を込めることによって、何かを伝えたり訴えたりすることを、本当に美しいと思っている。
感動さえしている。
意外なことに。
自分はどう考えても、その対極にいるタイプだと思っていたからだ。

長い間のヨーロッパでの生活で身体に染み込んだと思っていた「具体的な言葉や方法で自分の信念を伝える」こと、それは日本での生活においてメリットもあれば弊害もある。
「西洋至上主義」だった帰国直後はどうしても、「日本的」奥ゆかしさや、内なるものに全てを託すことに何の良さも見いだせなかったどころか、それを劣ったものだとさえ感じていた。
そして帰国して10年以上経ち、ある程度そんな呪縛から解かれた今では、それを自分の中で暴れさせずに、ちょうどいい具合にバランスをとりながらうまく飼いならせるようになったと自負していた。

禅とか武士道とか、研究したことはないけどね。
でも、自分がそんなことを思うようになるなんて少し前までは思ってもみなかったから、これはちょっとした発見かも。
何も言葉を発しなくても、すぐには人の目に触れる事すらなくても、人の行いや想いや存在は強く強く伝わることもあるのかもしれない。
人の目や耳に触れる表現者さえも、いや、だからこそ、この日本の(と言っていいのかわからないが)希有で不思議な精神が、ほかの誰にも負けない強さとなって生かされるのかもしれない。
それを信じてやってゆくことも、それを誇りに思うことも、許されるのではないか。

「外国で日本を外から見ることでわかる何か」は、外国にいる時にわかった気がしていた。
でも違ったかもしれない。
今、本当に「日本」と「日本人」の持つ、世界中ほかのどこにもない何かが、少しずつわかってきたような気がしている。

また違ってるかもしれないけどね(笑)。

椿の花が好きだ。
大好きな神社の片隅に咲く、この凛とした花は格別に力に満ちていた。
咲くときも、落ちるときも潔い。
そんなふうに生きて、散れたらいい。
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by saskia1217 | 2011-04-20 19:54 | 感じろ、考えろ、思え! | Comments(0)